戦前の教科書 本居宣長 学者魂執念の結実 『松阪の一夜』

ハナハト讀本

​​本居宣長 学者魂執念の結実 
​​昔の小学六年生の教科書です。”先人に学べ” の教育が多く見受けられます。

戦前の教科書 小學国語讀本 巻11 昭和13年発行
​第13​​​『松阪の一夜』​

​​本居宣長は伊勢の国松阪の人である。若い頃から読書が好きで、将来は学問で身を立てたいと一心に勉強をしていた。

 ある夏の半ば、宣長が行きつけの古本屋に行くと、主人は愛想良く迎えて
「どうも残念なことでした。あなたがよく会いたいとお話になる江戸の賀茂真淵先生が先程お見えになりました。」と言う。思いもよらない言葉に宣長は驚いて、
「先生がどうしてこちらへ。」
「何でも山城・大和方面のご旅行が済んで、これから参宮をなさるのだそうです。あの新上屋にお泊まりになって、さっきお出掛けの途中『何か珍しい本はないか。』と、お立ち寄り下さいました。」
「それは惜しいことをした。どうかしてお目にかかりたいものだが。」
​「後を追われたら、追いつけましょう。」

​宣長は大急ぎで真淵の様子を聞き取りながら後を追ったが、松阪の町の外れまで行ってもそれらしい人は見えない。次の宿の先まで行ってみたが、やはり追いつけなかった。宣長は力を落としてすごすごと戻って来た。そうして新上屋の主人に、万一お帰りに又泊まられることがあったらすぐ知らせてもらいたいと頼んでおいた。

 望みが叶って、宣長が真淵を新上屋の一室に訪ねることが出来たのは、それから数日の後であった。二人はほの暗い行燈のもとで対座した。真淵はもう七〇歳に近く、色々立派な著書もあって、天下に聞こえた老大家。宣長はまだ三〇歳余り、温和な人となりのうちに、どことなく才気のひらめいている少壮の学者。年こそ違え、二人は同じ学問の道をたどっているのである。だんだん話をしている中に、真淵は宣長の学識の尋常でないことを知って、非常に頼もしく思った。話が古事記のことに及ぶと宣長は、
「私は、かねがね古事記を研究したいと思っております。それについて、何かご注意下さることはございますまいか。」
「それはよいところにお気づきでした。私も実は早くから古事記を研究したい考えはあったのですが、それには万葉集を調べておくことが大切だと思って、その方の研究に取りかかったのです。ところが、いつの間にか年を取ってしまって、古事記に手をのばすことが出来なくなりました。あなたはまだお若いから、しっかり努力なさったら、きっとこの研究を大成することが出来ましょう。ただ注意しなければならないのは、順序正しく進むということです。これは、学問の研究には特に必要ですから、先ず土台を作ってそれから一歩一歩高く登り、最後の目的に達するようになさい。」

 夏の夜は更けやすい。家々の戸はもう閉ざされている。老学者の言に深く感動した宣長は、未来の希望に胸を躍らせながら、ひっそりした街並を我が家へ向かった。

 その後、宣長は絶えず文通して真淵の教えを受け、師弟の関係は日一日と親密の度を加えたが、面会の機会は松阪の一夜以後とうとう来なかった。

 宣長は真淵の志を受け継ぎ、35年の間努力に努力を重ね続け、遂に古事記の研究を大成した。有名な古事記伝という大著述はこの研究の​結果で、我が国文学の上に不滅の光を放っている。

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