今日は『小さなねぢ』原著のロシア創作童話についての興味深いお話について書いてみたいと思います。

ハナハト讀本

昭和12年発行『尋常小学 国語読本』第12巻​​
第12課『小さなねぢ』​​

暗い箱の中にしまい込まれていた小さな鉄のねぢが、不意にピンセットにはさまれて、明るい所へ出された。ねぢは驚いてあたりを見回したが、いろいろの物音、いろいろの物の形がごたごたと耳にはいり目にはいるばかりで、何が何やらさっぱりわからなかった。

しかしだんだん落ち着いて見ると、ここは時計屋の店であることがわかった。自分の置かれたのは、仕事台の上に乗っている小さなふたガラスの中で、そばには小さな心棒や歯車やぜんまいなどが並んでいる。きりやねぢ廻しやピンセットや小さな槌やさまざまな道具も、同じ台の上に横たわっている。周囲の壁やガラス戸棚には、いろいろな時計がたくさん並んでいる。かちかちと気ぜわしい置き時計で、かったりかったりと大ぎょうなのは柱時計である。


ねぢは、これ等の道具や時計をあれこれと見比べて、あれは何の役に立つのであろう、これはどんな所に置かれるのであろうなどと考えている中に、ふとひ自分の身の上に考えが及んだ。
「自分は何という小さい情けない者であろう。あのいろいろの道具、たくさんの時計、形も大きさもそれぞれ違ってはいるが、どれを見ても自分よりは大きく、自分よりはえらそうである。一かどの役目を勤めて世間の役に立つのに、どれもこれも不足は無さそうだある。唯自分だけがこのように小さくて、何の役にも立ちそうにない。あゝ、何という情けない身の上であろう。」


不意にばたばたと音がして、小さな子どもが二人奥から駆け出して来た。男の子と女の子である。二人はそこらを見廻していたが、男の子はやがて仕事台の上の物をあらこれといじり始めた。女の子はただじっと見守っていたが、やがてかの小さなねぢを見付けて、

「まあ、かわいいねぢ。」
男の子は指先でそれをつまもうとしたが、余り小さいのでつまめなかった。二度、三度。やっとつまんだと思うと直に落としてしまった。子どもは思わず顔を見合わせた。ねぢは仕事台の脚の陰にころがった。


この時大きなせきばらいが聞こえて、父の、時計師がはいって来た。時計師は
「此処で遊んではいけない。」
といいながら仕事台の上を見て、出して置いたねぢの無いのに気が付いた。
「ねぢが無い。誰だ、仕事台の上をかき廻したのは。あゝいうねぢはもう無くなって、あれ一つしか無いのだ。あれが無いと町長さんの懐中時計が直せない。探せ、探せ。」


ねぢはこれを聞いて、飛び上がるようにうれしかった。それでは自分のような小さな者でも役に立つことがあるのかしらと、夢中になって喜んだが、このような所にころげ落ちてしまって、若し見付からなかったらと、それが又心配になって来た。


親子は総掛かりで探し始めた。ねぢは「此処に居ます。」と叫びたくてたまらないが、口がきけない。三人はさんざん探し廻って見付からないのでがっかりした。ねぢもがっかりした。


その時、今まで雲の中に居た太陽が顔を出したので、日光が店一ぱいに差し込んで来た。するとねぢがその光線を受けてぴかりと光った。仕事台のそばに、ふさぎこんで下を見つめていた女の子がそれを見付けて、思わず「あら。」と叫んだ。
父も喜んだ。しかも一番喜んだのはねぢであった。


時計師は早速ピンセットでねぢをはさみ上げて、大事そうにもとのふたガラスの中へ入れた。そうして一つの懐中時計を出してそれをいじっていたが、やがてピンセットでねぢをはさんで機械の穴にさし込み、小さなねぢ廻しでしっかりとしめた。


龍頭を廻すと、今まで死んだようになっていた懐中時計が、忽ち愉快そうにかちかちと音を立て始めた。ねぢは、自分が此処に位置を占めたために、この時計全体が再び活動することが出来たのだと思うと、うれしくてうれしくてたまらなかった。時計師は仕上げた時計をちょっと耳に当ててからガラス戸棚の中につり下げた。


一日おいて町長さんが来た。
「時計は直りましたか。」
「直りました。ねぢが一本いたんでいましたから、取りかえて置きました。工合の悪いのはその為でした。」
といって渡した。ねぢは、
「自分もほんとうに役に立っているのだ。」
と心から満足した。
【現代語訳・ ねこ丸】

以前この「小さなねぢ」についてネットで調べたときに、岐阜大学教育学部国語教育の興味深い研究資料を見つけました。↓がリンク先です。
国定国語教科書教材「小さなねぢ」の考察
https://repository.lib.gifu-u.ac.jp/bitstream/20.500.12099/77332/1/edu_046701022.pdf
上記によりますと、このお話しは元々はロシアの創作童話で、1921年(大正10年)に邦訳されたものから取り上げられたそうです。
私が興味深く思ったのは、原著に関するお話しでした。原著は大まかに2部構成になっており、前半部分は「時計」の描写で、教科書ではこの前半部分は殆ど抜け落ちているそうです。限られた授業時間内での教材ですので、後半をメインに抜粋したのも仕方がありません。
原著を読むにおいて「時計と時間、時計技師」の持つ時代的背景、しかも中世まで遡って見つめなくては理解出来ないそうです。

「時」というものは、人間には操ることの不可能な絶対的な存在。
当時「時間」とは哲学的に捉えられ、崇高さと神秘性、即ち神より与えられた神と同等なる絶対な存在と考えられていたそうです。
即ち神は宇宙の時間を操っておられる「時計技師」である。中世時代「時間」を正確に刻む「時計」を操る「時計技師」はそのような意味で特別な存在だったそうです。魔法使いのように神秘的、畏れ多い存在だったそうです。

その様な宗教的神観から時計技師はプロテスタント信者が多かったそうです。そして宗教戦争でカソリックに敗れたプロテスタント達は方々へ逃れていき、スイスへ逃れた時計技師達によってスイスの時計産業は発展したそうです。
ヨーロッパの文学作品には根底に神観が現れており、神と宇宙、自然に対する崇高なる思いを感じます。「時計」が単なる道具ではない中世時代にしばし思いを馳せました。

後半は小さくて情けなく思ったねぢが、人から必要とされ役に立つ事を知り、誇りを取り戻すお話しです。
人も社会も共同体として、全体の幸福が個人個人の幸福をもたらします。行き過ぎた個人主義では社会全体の調和は成り立たなくなります。世のため人のためという社会生活の基本は小さい頃に身につけたいものですね。

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