ペリー来航による日米交渉の資料は、日本側の資料と米国側の資料の両方が存在します。そして今日我々が学んでいる内容は、殆どが米国側の資料によるものであり、米国側の主観的評価が加味された情報となっています。真実は両国資料の客観的議事録に沿うことで得られます。残念なのは学校教育の内容もこの米国側主観であるということです。交渉の真実と当時の幕臣達の活躍ぶりを是非とも教育に取り入れたいものです。
本日は下のページ『墨夷応接録』についての続きです。
『墨夷応接録』とは
江戸幕府とペリー艦隊との「史上初の日米交渉」について記された、日本側の唯一の議事録。
嘉永7年1月19日~6月2日までの交渉内容とその間に周辺で起きた重要な出来事を、幕府全権・林復斎らの視点で詳細に記録している。
先日、たまたま『史』(令和5年7月号)という冊子を手にしました。
これは一般社団法人「新しい歴史教科書をつくる会」が発行しているようです。
帰宅後パラパラとめくって目に止まったのが「新しい歴史教科書・代表執筆者」の藤岡信勝先生の「ペリー来航」と幕末外交史の真実 ーディベートに勝った林大学頭復斎という記事。
『現代語訳 墨夷応接録』(2018年作品社/森田健司編訳・校註・解説)から、交渉の重要な部分を抜粋要約してあり、当時の林大学頭とペリーとの実際のやり取りが詳細にかかれていました。こちらの記事に刺激され、私も前回に追記してもう少し書きたくなりました。
『現代語訳 墨夷応接録』から抜粋要約
ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が浦賀沖に姿を現したのは1853年(嘉永6年6月3日ー旧暦以下同様)、最新鋭の蒸気船2隻と帆船2隻の合計4隻。黒船の呼称は、船体がタールで黒く塗られていたことからだった。このⅠ回目の来航時、江戸近海に留まっていたのはわずか9日ほどだった。6月9日一行は久里浜に上陸し、フィルモア大統領からの国書の受け渡しが行われたが、その事項に関する日本側からの返答は無かった。将軍である徳川家慶が病床に伏せていたために返答が出来ない旨を伝えている。ペリーはⅠ年後に回答を聞きにくると言い残し、6月12日に日本を後にした。
2度目の来航は翌年1月16日、わずか半年ほどで来航した。この時の艦隊は前回より大規模で蒸気船3隻と帆船6隻の合計9隻。開国交渉が避けられないと悟った幕府は大学頭である林復斎らを応接係に任命、横浜応接所でペリーとの会談に臨ませた。3月3日に日米和親条約の調印。
その後ペリー艦隊は、箱館港の視察を経て、再度下田で交渉を行う。5月22日、条約の細則いわゆる下田追加条約の調印に至る。
これによって、下田と箱館の開港に加え、アメリカ人が両港から上陸した際、自由に移動できる場所と距離、遊歩区域も確定された。
以上が「黒船来航」の概要である。
目的を果たしたペリー艦隊は、帰国のため嘉永7年(1854)6月1日下田港を出港しました。
しかし、我々はこういった客観的情報に加えて、『江戸幕府による鎖国の体制下、日本は、圧倒的軍事力を誇るアメリカ艦隊に恐れおののき、不本意ながら国交を結んだ』という主観的評価が加味された情報を憶えている。
それは、その後今日まで日本側の資料が広まらず、アメリカ側の資料である『ペリー艦隊日本遠征記』が翻訳され多くの日本人に読まれてきたからであろうと伺える。
では、日本側の議事録『 墨夷応接録』からは何が読み取れるのか?
大変興味深いです。実際の交渉内容を簡略化して一部紹介します。※ご関心持たれた方は是非書籍を手に取りお読み下さい(o^^o)
- 日米協議の始まり(1854年2月10日)横浜応接所にて ペリー以下30人余りが応接所へ入る。上陸は600人ほどで音楽を鳴らし訓練された隊列を組んでいた。
大学頭・・・遠路遙々、再度のご渡航は大変だったことだろう。
ペリー・・・はじめてお目通りする。ご機嫌麗しゅう。この度、この地に来航したことについて、公方様に祝砲21発を奉献し、大学頭様に同じく18発、また今日初めて上陸したことについて、別に18発を、自ら祝するものとして撃ちたい。
※祝砲の数は決まっており、祝い事がある際は必ず発するものとのこと。これは西洋諸国の法によるもので、すぐに連発した。
大学頭・・・去年の夏、貴国の大統領より、我が国の将軍に書簡が差し出され、そこに記された事項についてお答えする。
薪水や食料の件は、予てよりのこと、また石炭も懇望しているとのこと、我が国にある品で宜しければ提供可能である。
加えて、漂流民の保護も国法があるため、保護や処置は行う。よって、これら両条は承認しよう。しかし、その他の交易などの件は、一切了承が困難である。 - 漂流民の救助をめぐって
ペリー・・・我が国は、予てより人命を第一と考えて自国民も他国民も手厚く保護してきた。ところが貴国においては全く承知していない。決して救助せず、砲撃し、漂着した者あらば牢獄に閉じ込め不任の至りと思われる。これまで通りで改善無く、遭難船の救助もして貰えないならば仇敵の国と言うしかない。
もし、仇敵の国なのであれば、国力を尽くして戦争に及び、雌雄を決するつもりである。戦争の用意は十分にしてきてある。我が国は最近メキシコ国と戦い、国都までも攻め取った。貴国も事情によっては同じようになるかも知れない。よくお考えになることだ。
大学頭・・・適切なのであれば、戦争に及ぶのも宜しかろう。しかし、使節の話されたことは事実に反する内容が多い。伝聞の誤りにより、思い込まれたのであろう。そもそも我が国は外国との交流が無いため理解されにくいのは仕方のないことと思う。
まず人命を第一に重んずることについては、他の国に勝っている。300年近い泰平が続き、国内が和合している国政の善き様をご覧になるべきだろう。
よくよく我が国の様子を確認されれば、疑念もすぐ氷解すると思う。貴国においても、人命を重視すると言うならば、両国に遺恨が存することもないだろう。とても戦争に及ぶほどのこととは思えない。使節もじっくりお考えになられるがよい。 - 交易は交渉の本題にあらず
ペリー・・・ただ今の話で、予てより薪水食料などは供給され、かつ他国の船も救助されていると理解した。困難に直面した際は救助願えるならば、特に申し上げることはない。
さて、交易の件であるが、これはなぜ了承願えないのか。貴国にしても、格別な国益が得られるはず、是非とも承認されるべきかと思われる。
大学頭・・・いかにも、交易というものは国益になるものだが、元来日本国は、自国の生産物で自足しており、外国の品物がなくとも少しも不足はない。そのため、交易は行わないと法によって定めている。
使節の来航目的は人命重視と話された。そうであれば遭難した船を救助して欲しいという願いは叶っているのだから、目的は達成された。交易の件は利益の話であって、人命に関わる物では無いのだから、それで良いのではないか。
ペリー・・・もっともなことである。交易の件は強いてお願いすることではない。 - アメリカからの貢献物(翌日11日)船内にて 通詞の森山栄之助をペリー船へ派遣
ペリー・・・昨日は誠にご苦労だった。大学頭、その他の応接掛の方々に対応頂いたこと、そして様々なご厚意に対し感謝申し上げたい。(翌日ペリーより貢献物を贈呈したいとの申し出あり。15日 横浜応接所にアメリカ人が続々と貢献物を持参した。) - 薪水給与場所の交渉(19日)横浜応接所にて ペリー以下200人ほどが上陸
ペリー・・・先日の面談では失礼があったかも知れないが、ご容赦願いたい。その後、貢献物の贈呈も無事終わり、大変喜ばしいことである。
大学頭・・・この度は貢献物のみならず、応接掛の各々への贈り物を頂戴し、ご丁寧な対応に恐縮している。
ーーーーー薪水食料石炭等の供給についての交渉がなされるが、問題無く合意ーーーーー
ペリー・・・それでは提供される品を受け取る場所はーーー
大学頭・・・かねてより備前長崎と決まっており、長崎へ行って下さればいつでも提供しよう。この地には今後寄港することを許可できない。
ペリー・・・彼の地は誠に不便である。何卒、日本の東南にて5~6ヶ所、北海で2~3ヶ所も補給港を定めて頂きたい。
大学頭・・・数ヶ所は決められないが、長崎が不都合ならばいずれ都合の良い港を1ヶ所決めるとしよう。ーーーーーー交渉続き、26日の会談に持ち込まれるーーーーーー
<26日>
大学頭・・・南方は伊豆国下田港、北方は松前領の箱館港。この2ヶ所と決定したので、以後この2港で貴国の船への提供を行うこととする。
ペリー・・・箱館港は良い港と承知しているが、下田港は存じていない。一覧させて頂きたい。
大学頭・・・もっともなことである。承知した。ーーーーーー交渉続く - 江戸に向かうペリー (日米和親条約調印後)
1854年3月9日 ペリーが4名ほどを召し連れて横浜を中心に1里ほどの範囲を歩き検分。ペリーは殊の外喜び、夕刻になって船へ帰った。
ーーーーーどうにもこうにも江戸へ行きたいペリーと、許可できない応接掛とのやり取りが続きます。最終的にペリーが取った行動についての記録ーーーーー
13日船上 大師河原沖から羽田燈明台を遠目に見える所で船を止め、「向こうに燈明台が見えるが、あそこは江戸なのか。」栄之助は「あの地はもはや江戸である。あの先の日本船は全て江戸へ入ろうとしているものだ。」ペリーは主要な乗組員を全て呼び寄せ、遠眼鏡を出して舟先の高いところに立ち、江戸の方を眺めて言った。「なるほど、江戸はよく見えた。もはや、これで江戸を一覧したので、出帆しよう。」栄之助には「あなた方もさぞかし心配されたことだろう。しかし、国から申しつけられたこと(江戸を見る)もあり、やむを得ずこのようなことを行った。以上で(江戸への立ち寄り)は終了とする。配下を大勢持つ者もあり、江戸を見ずに帰れば納得しない者もいる。だから仕方なくこのようにしたのである。もはや全員に江戸を見せたので、帰国した後、江戸を見ていないなどと言う者はいないだろうと、安心している。関係者の方々にも、大いにご苦労を掛けた。大学頭様、その他の関係者の皆様にも、宜しく伝えていただきたい。」と、丁寧に別れの挨拶をした。アメリカ船は、この日のうちに小柴まで退帆した。
この後『現代語訳 墨夷応接録』では
〇二篇 下田追加条約(嘉永7年5月8日~6月2日)の議事録 5月22日下田にて調印
〇解説
などがあります。
解説の冒頭より
応接掛けの面々は、頭がよく回るだけでなく、ユーモア感覚もあり、その仕事ぶりからは余裕すら感じられる。ーーー略ーーー応接掛は、この交渉で落命することさえも想定していた。江戸を守るため、日本を守るために覚悟を決めていたのである。ーーー略ーーー
だから我々はこの史料が、誇り高い幕臣たちが命を賭して臨んだ交渉の記録であることを、決して忘れてはならないと思う。そして同時に、この貴重な文書をいつまでも語り継いでいく義務がある。ーーー
是非とも多くの方々に読んで頂きたいお勧め書籍です!
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