安倍川の義夫『心にすまない事はまだ一度もした事はありません。』 

ハナハト讀本

​​川を渡す一人の人夫の生き様。子どもの教育はこうありたい!
『心にすまない事はまだ一度もした事はありません。』​

戦前の教科書 ハナハト讀本 昭和九年発行 小学四年生 国語教科書

 尋常小学國語讀本 巻七 

​​​第17 安倍川の義夫


百八〇~九〇年昔の事であります。連日の雨で川という川には水が溢れました。橋の無いところでは五日も十日も水の引くのを待たなければならず、川辺の宿は泊めきれないほどの客でございました。

中でも安倍川の宿は一層の人混みであったと申しますが、
「それ、川が渡れる。」
と言うことになりますと、我も我もと先を争って渡りました。渡るといっても、自分一人では渡ることは出来ません。水に慣れた人夫の肩に乗るか、手を引いてもらうかして渡るのでございます。大勢の人々が口々に人夫を呼んでは我先に渡ろうとしますし、年寄りや子どもは声を立てて呼び合いますので、川辺は非常な騒ぎでございました。

この時みすぼらしいなりをした一人の男が、人夫と渡り賃を高い安いと言って争っていましたが、相談は出来ないものと見切ったのでしょう、着物を脱いで頭にのせ、一人で川に入って行きました。そうして随分危ない目にあって、ようよう向こう岸に着きました。

かの人夫は、少ししてから、何の気もなく、先程渡り賃を争った所へ行ってみますと、革の財布が落ちていました。取り上げると大そう重くて、中には小判がどっさり入っていました。
「これはあの人が落として行ったに違いないが、渡り賃が高いと言って、この危ない川を一人で越したほどの人である。もしこの大金が無かったら、気が違って死ぬような事になるかも知れぬ。気の毒なことだ。」
と思って、人夫はすぐ川を渡って、かの男を追っかけました。

二里程行って、大きな峠へ掛かりますと、上から片肌脱いで、右手に杖をついて、駆け下りて来る者があります。見れば先の男でございます。人夫は
「もしもし。」
と呼びかけて、尋ねました。
「あなたは今朝一人で川を越した方ではありませんか。」
「そうです。」
「なんで又そう慌ててひきかえします。」
「落としものをしましたから。」
と言い言い駆け出します。人夫はその男のたもとを押さえて、
「まあ、お待ちなさい。落とした物は。」
「革の財布で。」
「中には。」
「小判が百五十両入っております。五十両は黄色なきれに包んであって、百両は小さな袋に入れてあります。外にまだ手紙が七~八本。」
「安心しなさい。ここへ持ってきました。」
と言って、人夫は財布を出して渡しました。かの男は夢かとばかり喜んで、財布を幾度か頂きましたが、目からは涙がひっきりなしにこぼれています。
しばらくして、
「家の中で見えなくした物でも、中々でない物でございます。まして人通りの多い渡場で落としましたから、たとえとんで行ってみたところで、もうあるまいとは思いましたが、このまま帰ることも出来ませんので、引っ返して参りました。いよいよ無いときには、川の中へ飛び込んで死んでしまおうと、覚悟をして来たのでございます。それがあなたのような正直なお方に拾われて、財布を頂かせてもらいましたが、頂いたのは財布ではなくて、私の命でございます。ついてはこの中の金を半分だけお礼のしるしに差し上げます。」
と言って、財布の中に手を入れました。人夫はこれを見て、
「おやめなさい。あなたから一文でも貰う気があるくらいなら、ここまで持って来はしません。さあ、道を急ぎなさい。私は渡場へ帰って人を渡します。」
と言って、帰ろうとしました。かの男は
「どうぞしばらく。」と言って引き留めました。
「私はここから百里先の紀州の者でございます。房州へ出稼ぎに行って、労を致しておりましたが、仲間の者が国へ送る金を預かって、この財布に入れて来たのでございます。小袋の方は私どものだんなが国へおやりになる金ですが、だんなは情け深い方ですから、この金をあなたに差し上げましても、お叱りになることはあるまいと思います。どうぞこれを受け取って、私の気が済むようにして下さい。その上あなたのお名前を承りとうございます。妻や子どもに、朝晩お念仏のかわりにとなえさせます。」
人夫はこれを聞いて、首をふりました。
「もしお金を貰ったら、あなたの気はそれで済むかも知れませんが、私の気が済みません。私は川端の人夫で、名前を言うほどの者ではありません。家には七〇近い父と、三〇になる妻と、三つになる子どもがあるので、どうかすると、その日の暮らしに困るようなこともありますが、​​​心にすまない事はまだ一度もした事はありません。」​​​
こう言って、さっさと帰って参ります。
かの男は
「それでは困る。是非。」
と言いながら、人夫の後について来ましたが、とうとう又川を渡って、人夫の家へ参りました。見れば年取った父というのが、薄暗い小窓の下で、わらじを作っておりまして、妻は炉端でぼろを綴っております。かの男がわけを話して、どうかお礼を受けてくれと言いますと、年寄りはちょっと振り返りましたが、何とも言わず、すぐ又仕事を続けました。
妻もまた
「せっかくですが・・・。」
と言って、相手になりません。

男は思案にくれて、役所へ訴え出ました。役人はわけを詳しく尋ね、人夫をも呼び出して、
「さてさて、二人とも誠に心がけのよい者。近頃感心致した。紀州の男は急いで国へ帰って、その金を間違いなく届けるように致せ。人夫にはこの方から手当を致す。」
と申し渡して、人夫に褒美の金をたくさんやったと申します。

名も無き貧しい一庶民の「義」の生き様が、とても自然です。妻も父も、礼は要らぬとお金を受け取らない。お役人の判断も、情に篤いです。道徳的価値観が民たちの生活に根付いていたようです。

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