戦前の教科書 『古事記の話』偉大なる文字!ひたすら先人に感謝!感謝!

サクラ讀本

『古事記』は古代日本を知る資料としては ほとんど重んじられておらず、江戸時代には既に解読不能に陥っていたとのことです。

​小學国語読本 巻11 昭和13年発行 (サクラ読本)  ​​(小学6年生用の教科書)​​
​​第一二 古事記の話​​​​​


​​​ 元明天皇​の勅命によって、太安万侶は稗田阿礼がそらんずる我が国の古伝を文字に書き表すことになった。

 阿礼は記憶力の非凡な人であった。彼が天武天皇の仰せのままに我が国の正しい古記録を読み古い言伝へをそらんじ始めたのは三〇余年前のことである。当時二八歳の若い盛りであった彼が今ではもう六〇近い老人になった。この人がなくなったら、我が国の正しい古伝、つまり神代以来の尊い歴史も文学も、彼の死と共に滅んでしまうかも知れないのであった。

 勅命の下ったことを承った阿礼は、今や天にも昇る心地であったろう。そうして長い長い物語を読み上げるのに殆ど心魂を捧げ尽くしたことであろう。ところで、これを文字に書き表す安万侶の苦心は、それにも増して大きいものがあった。

 その頃は​まだカタカナも平仮名もなかった。文字と言えば漢字ばかりで、文章と言えば漢文が普通であった。しかるに阿礼の語る物語はすべて我が国の古い言葉である。我が国の古語を漢字ばかりでそのままに書き表すことが、安万侶にとっては大きな苦心であった。

 試みに、今日若しカタカナも平仮名もないとして、漢字ばかりで我々の日常使う言葉を書き現そうとしたらどうなるであろう。「くさきはあおい」をいうのを漢字だけで書けば「草木青」と書いて満足せねばならない。しかしこれでは、漢文流に「ソウボクアオシ」と読むことも出来る。そこで本当に間違いなく読ませるためには「久佐幾波阿遠以(クサキハアオイ)」とでも書かねばならなくなる。だがこれでは又あまりに長すぎて読むのに却って不便である。

 安万侶は色々の方法を用いた。例えば「アメツチ」というのを「天地」と書き、「クラゲ」というのを「久羅下」と書いた。前者は「クサキ」を「草木」と書くのと同様であり、後者は「久佐幾」と書くのと同じである。「ハヤスサノヲノミコト」というのを「速須佐之男命」としたのは、「草木」と「久佐幾」と二つの方法を一緒にしたのである。これらは簡単な名前に過ぎないが、長い文章になると、その苦心はとても一通りのことではなかった。

​​​​​ しかし、安万侶のこうした苦心はやがて報いられて阿礼の語る所を言葉そのままに文字に書き表すことが出来た。そうして、三巻の書物にまとめて天皇に奉った。これが古事記と言って、謂わば我が国で最も古い書物である。和銅5年正月28日、今から一千二百余年の昔のことである。​​​※和銅5年:西暦712年​

 アメの岩屋、八岐ヤマタノヲロチ、大国主命​​​​​​オオクニヌシノミコト天孫降臨テンソンコウリン​、二つの玉等の神代の尊い物語を始め、神武ジンム天皇や日本武尊​​ヤマトタケルノミコトの御事蹟、その他古代のすべての事が古事記に載せられて、今日に伝わっている。

 ​​​それは要するに我が国初以来の尊い歴史​であり、文学である。殊に大切なことは、こうして我が国の古伝が古語のままに残ったことである。古語には我が古代国民の精神がとけ込んでいる。我々は今日古事記を読んで、国初以来の歴史を知ると共に、その言葉を通して、古代日本人の精神をありありと読むことが出来るのである。

何と言いますか、素晴らしいですね・・・。

しかし『古事記』は古代日本を知る資料としては ほとんど重んじられておらず、江戸時代には既に解読不能に陥っていたとのことです。

江戸時代、『古事記』​を研究し難解な『古事記』の解読に成功し、『古事記伝』という書物を著した人物が、かの有名な​​『本居宣長』​​です。​『古事記伝』の完成は寛政十年(1798)六月で、宣長六十九歳。三十五年を費やしたそうです。

​本居宣長に多大な影響を与えた人物に​​『賀茂真淵』​​という方がおります。「松坂の一夜」という、師と対面したエピソードがあり、この教科書の​『古事記』の次の第一三に載っています。
何れご紹介したく思っております。​​

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