日本の誇り「関孝和」江戸時代の天才数学者 サクラ読本

サクラ讀本
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尋常科用 小學国語讀本 巻12 昭和13年発行
第二十三 『関 孝和』

日本が生んだ数学界の偉人に関孝和という人があった。二百数十年の昔に出て、日本の数学、即ち和算の基礎​を確立した人である。

和算と言えば、或いはそろばんによる算法のことだと考える人もあろう。しかし、孝和は決してそろばんを考案した人でもなければ、そろばんの達者であったから偉いというわけではない。


我が国は、もと志那から数学を学んだ。志那では、古来算木というものを使って、加減乗除や、開平・開立等の算法を行って来たのであるが、今から凡そ六~七百年前に著しく発達して、それが代数学にまで高められるようになった。


​ところで、志那ではその頃そろばんというものが考案され、流行しはじめた。そうして、それが日常の計算に非常に便利なものであった為、いつの間にかそろばんのみが用いられ、算木による難しい数学は全然忘れられてしまったのであった。​


​日本は、志那の算木による算法を学ぶとともに、そろばんをもまた我が戦国時代には、既に輸入していたのであるが、彼の国のように、算木による方法を捨ててしまうことはなかった。捨てなかったばかりか、この方法から導き出された我が国の数学は、江戸時代に出た関孝和の天才によって、世界的水準にまで高められたのであった。​


算木というのは、長さ4~5cmぐらいの四角柱の木である。これを盤の上に縦に1本置けば1、2本並べて置けば2​、5本並べて置けば5を現す。6以上は置き方をやや異にするが、要するにこうして1~9までの数を表し得るとともに、これを種々に並べ、又変化させることによって、大きな数や式を現し、かつ演算することが出来たのである。


孝和は、この算木を置く方法から考えついて、数や式を紙の上に書き表し、更に文字を記号として使うことも工夫した。こうして、彼は先ず志那伝来の算木による方法を、紙に書き表す筆算の方法に改めたのであるが、その結果は、式も演算も自由自在となり、従って今まで企て及ばなかった数学上のことがらが、次から次へと解決されるようになった。


世に孝和の創始する所を天竄術(てんざんじゅつ)と言う。天竄術​は、要するに筆算による代数学であって、、これによって、志那の数学が未だかつて及び得なかった高い域にまで進む事が出来たのである。そうして、当時の西洋を除けば、かく代数の演算が自在に行われるのは、ひとり我が国のみであった。


孝和は、又、正三角形、正四角形、正五角形等の正多角形に関する算法を考案し、これを角術と称したが、こういうものは、勿論彼以前志那にも日本にもなかったところである。


孝和の天才は、円や球などの算法を工夫するに及んで、いよいよ巧妙な働きを見せた。そうして、その極致は、彼の後継者によって、遂に西洋の微分積分に対比すべきものにまで推し進められた。


​​いわゆる微分積分は、孝和と丁度同じ時代に、イギリスのニュートン、及びドイツのライプニッツによって創始された高級数学である。しかし、彼等がこういうものを生み出したのには、西洋諸国の学術があり、数学の長い歴史があったからで、むしろ当然の道を進んだものと言える。ひとり我が孝和に至っては、西洋の数学・学術と何ら関係する所なく、ひたすら和算に独自の天地を開いたのであって、まことに文化史上の一大偉観であると言わねばならぬ。


孝和の門下には幾多の人物が出て、師弟相承け相継いで、和算はいよいよ進境を見せた。世にこれを関流と称し、他の諸流に比して著しく頭角を現していた。


明治になって、西洋の数学が輸入されるとともに、関流を始め和算の諸流は自らすたれた。それは、当時日本が学ばねばならなかった西洋諸種の学術を採用するため、数学も又西洋の数学によらなければならなかったからで、まことに是非とも無いことであった。しかし、和算にかくも発揮された日本人の天才と錬磨があったればこそ、我が国人が西洋の数学を容易に征服して、急速の進歩をないし遂げたのであった。

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