『国語』は「国民の​魂​の宿る所」 戦前の教科書

サクラ讀本

『国語』は「国民の​魂​の宿る所」とある。
最近の風潮として、英語教育に力を入れる傾向にあるが、
前提として、先ずは母国語に対する姿勢を正す必要があるのではないだろうか・・・?​​

小學国語讀本 巻九 昭和12年発行  ​小学五年生国語教科書
​第二十八 国語の力​​​


​​ ねんねんころりよ おころりよ、
 ぼうやはよい子だ ねんねしな。

 誰でも​幼い時、母や祖母に抱かれてこうした歌を聴きながら、快い夢路に入ったことを思い出すであろう。このやさしい歌に歌われている言葉こそ我がなつかしい国語である。

 君が代は千代に八千代にさざれ石の
   いわおとなりて苔のむすまで

 この国家を奉唱する時、我々日本人は、思わず襟を正して、栄えます我が皇室の万歳を心から祈り奉る。この国家に歌われている国歌に歌われている言葉もまた我が尊い国語に外ならない。

 我々が、毎日話したり、聞いたり、読んだり、書いたりする言葉が、我々の国語である。我々は一日たりとも国語の力をかりずに生活する日はない。我々は、国語によって話したり、考えたり、物事を学んだりして日本人となるのである。国語こそは、まことに我々を育て、我々を教えてくれる大恩人なのである。

 このように大切な国語であるのに、ともすれば国語の恩をわきまえず、中には国語ということさえも考えない人がある。しかし、一度外国の地を踏んで、言葉の通じない所へ行くと、誰でも国語のありがたさをしみじみと感ずる。こういう所で、たまたまなつかしい日本語を聞くと、まるで地獄で仏に会った心地がし、愛国の心が泉のようにわき起こるのを感ずるのである。アメリカ合衆国や、ブラジル等に住んでいる日本人は、日本語学校を建てて、自分の子供達に国語を教えている。日本人は、日本語によって教育されなければならないからである。

​ 我が国は、神代このかた万世一系の天皇をいただき、世界にたぐいなき国體を成して、今日に進んで来たのであるが、我が国語もまた、国初以来継続して現在に及んでいる。だから、我が国語には祖先以来の感情精神がとけこんでおり、それがまた今日の我々を結び付けて、国民として一身一体のようにならしめているのである。若し国語の力によらなかったら、我々の心はどんなにばらばらになることであろう。してみると、一旦緩急ある時、国をあげて国難におもむくのも、皇国のよろこびに国をあげて万歳を唱えるのも、一つには国語の力があづかっていると言わなければならない。

 国語はこういう風に、国家・国民と離すことの出来ないものである。国語を忘れた国民は国民でないとさえ言われている。

 国語を尊べ。国語を愛せよ。国語こそは、国民の魂の宿る所である。

なるほど!永遠のベストセラー『聖書』冒頭には

『神は「光あれ」と言われた。すると光があった。』 とある。

ヨハネの福音書1章1節では「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」

また、イエス・キリストは『「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである。』と書いてある。」(マタイの福音書4章4節)と仰せになった。

神はどのような言語で「光あれ」と言われたのだろうか?そもそもこの世界でこんなに多くの言語が生じたのも聖書によるとバベルの塔を建設して、人間が神に反逆して悪巧みをしようとしたから、それを阻止するために神は人々の言語を通じないようにさせたとある。そうであるならば、悪巧みではなく、神の意に叶うために結束するのであれば、一緒の言葉を用いて、話と心が通じた方がいいであろう。

国語が国民の魂の宿るところであるならば、神の言葉とはどのような言語なのであろうか?神の国の民達の言語を是非学んでみたいものである。神国日本というのだから、日本語が神の国の言語である可能性はあるのかも知れない。尚更に国語を大切にしようと改めて思った・・・。

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