「豊田佐吉」世界のトヨタ!・・・戦前教科書には載っていた!

サクラ讀本

世界を代表する日本の自動車メーカー「トヨタ自動車」。
トヨタグループを創り上げた人物は豊田喜一郎氏。その基盤を創ったのが今回ご紹介する「豊田佐吉(とよださきち)氏」です。喜一郎氏は豊田佐吉氏の息子であり、佐吉氏の精神や信念を引き継いで自動車産業に進出し、不屈の精神をもって成功させました。

小學国語讀本 巻八 昭和11年発行
​第十四課 自動織機

明治二十三年、東京に博覧会が開かれた時の事である。田舎者らしい一人の青年が、毎日毎日機械館に来ては、そこに陳列してある機械の前に座って、じっとそれに見入って居るのであった。掛の人々はとうとう彼をあやしい者とにらんで取り調べた。調べてみると、気ちがいでも何でもなかった。非常な機械好きで、しかも愛国心の強い青年であった。

彼はそこに並べてある機械を指して、
「これは皆外国品ばかりではないか。こんな事で日本の将来をどうする。今に私は立派な国産品を作って、きっと外国品を追っ払って見せる。」
と、かたい決心を語った。此の青年こそ、後に自動織機を発明して、世界の工業界に名を轟かした豊田佐吉其の人であった。

佐吉は静岡県の田舎に生まれた。初め大工として働いて居たが、其の中に織機の改良を思い立ち、暇さえあれば方々の織場を見て歩いた。時には、機械を壊したといって叱られ、村の青年たちからは、男のくせにとあざけられた。こうした苦心を重ねて、佐吉は木製の改造織機を作ったが、実験してみると失敗であった。それ見た事かと、人々はあざけり笑った。しかし、佐吉は何と言われても、ただ黙って研究の歩を進めた。博覧会を見に行ったのも此の頃であった。

帰ってからの彼の努力は、一層目覚ましかった。そうして、間も無く木製織機の改造に見事成功した。二十四歳の時であった。
其の後、佐吉はさらに動力を使用する織機の発明に成功して、それが広く世界に使用されるようになった。ある会社では、此の織機と外国製の織機とを、一年に渡って試してみたが、残念にも、佐吉の機械は外国製に及ばなかった。


佐吉は涙を流して悔しがった。さらに三年後、外国品に勝る物をどうにか作り上げることが出来た。

しかし、此の成功に満足してしまう佐吉ではなかった。彼は、ほとんど其の一生を織機の改良に捧げた。大正十五年、彼は遂に世界無比の自動織機を発明した。それは、縦糸が切れれば自動的に運転が止まり、横糸が無くなれば自動的にこれを補う仕掛けになって居る機械で、一人で四〜五十台を取り扱うことが出来る。彼が織機の研究を始めてから四十余年、気ちがいと言われ、貧苦と戦い、あらゆる困難に耐えて、遂に此の成功を見たのである。

発明に対する彼の熱心は、まことに驚くべきものがあった。朝は誰よりも早く起きて研究室に入り、夜も遅くまで閉じこもって居るので、家族の人は、彼がいつ寝たかも知らない事が多かった。

こんな事もあった。いつもの如く研究室に入った佐吉は、日が暮れても出て来ない、夜中過ぎても出て来ない。遂に世が明けて鶏が鳴いた。東の空に朝日がのぼった。家族のものが心配して、研究室へ行って見ると、途端に佐吉は図面を片手に勢いよく飛び出して来た。そうして、一さんに工場へ走って行った。
「おい、誰もいないか。」
と、佐吉は叫んだ。工場はがらんとしている。後からついて行った家族のものが、
「今日は元日でございます。」
と言ったので、
「ははは、そうだったか。」
と大笑いした。


佐吉は、夜通し考えた事を実際に作らせようと思って、元日とも知らず飛び込んだのであった。

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