4回に渉り『人格の完成』を紹介しましたが、自分なりにまとめと感想を・・・。前半です
その①「意志の自由」 動物との決定的な違い。動物はその行動において本能に駆られるのみだが、人間は自己の意志により選択し、任意にこれを決定することが出来る。
この動物と人間の違いは何だろうか?
宇宙には間違いなく宇宙の秩序と法則があり、全てはこの大いなる法によって、美しく調和が保たれている。動物の本能はこの法の一端であり決して自然界の調和を乱すことはない。しかし人間の意志というものは、法に従うことも外れることも自らの意志で選択出来るという恐ろしい存在である。即ち、自らの意志でこの美しい自然界の調和をぶちこわす事も可能な存在であるのだ。
ここで改めて確認するが、我々は人間に生まれようと思って生まれたわけではなく、気が付いてみると「私」という存在として生まれていたのである。そこには自らの意志は関与しておらず、「私」を存在せしめた「意志」というものは、「私」より前に在ったという客観的事実がある。実はこのことはとても重要なことで、宇宙を貫く法則には原因があり結果があるという因果法則があるが、結果の前には必ず原因があるのである。
「私」の人生は誕生によって始まったが、向かう先は間違いなく死である。それでは最終的に誕生の目的は死?であるのか・・・。
客観的にこの事実を観るとそのような結論になるのだが、その点を今後もう少し深掘りしてみようと思う。
その①「目的の自覚」 ここでは「すべて行為には目的有り」「人類は自己の行為に関してその目的を自覚す」とあり「意志の作用は、必ず目的の自覚を有している」とある。
つまり「行い」は意志の結果であり、その行いの前に「目的」があるのである。
その②「意志の自由より責任を生ず」では「我等は自己の行為に対して責任を免れることはは出来ない」とある。そして行いには必ず責任が伴うのである。それこそが本能で生きる動物との絶対的な違いでもある。つまり人間が自然界の法を乱す行いをすれば、その責任は必ず人間自身について回るのである。
それはナント!人類の歴史という客観的な時の流れからも読み取ることが出来るという事実がある。 歴史に関してはまた何れかの機会に・・・。
その②「目的の自覚より理想を生ず」知識と人徳が進歩するに伴い、個から全体へと目的も自ずと広がっていくが、それを理想と言う。理想は人間の道徳的生活には必ず在るべきものである。人は集合体、社会的生活の中に存在しており、関連性を持って社会は成り立っている。結局「私」だけでは社会は成り立たず、「私」をどのような「存在」と捉えるのかが重要であり、もっと言えば「家族」「社会」「国家」「世界」「宇宙」と「私」をどのように関連付け、捉えるのかということである。 ・・・次回へ続く
その③「責任と理想とは人格の二要素なり」
その③「人格完成の法」
その③「人格の平等と差別」
その④「人格の平等と差別とは何を訓(おし)うるか」
その④「人の価値」
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