その③昔の中学生レベル高!(^_^;)「人格完成の法」「人格の平等と差別」
戦前の教科書 昔の中学生レベル高いです!(^_^;)
その③ 全④回に分けて全文を記載
第二十二課 『人格の完成』 中等修身教科書 巻四 大正5年発行 服部宇之吉 著
責任と理想とは人格の二要素なり
是れを以て之を観るに前には意志の自由と目的の自覚とを以て人格の二大特質であると言ったが、今我等は更に一歩を進め、その意味を敷衍(ふえん・押し広げる)として、吾人(ごじん・我々)が自己の行為に就いて責任を感じること、及び一定の理想に基づいて一切の行動を支配すること、是れ実に人格の二要素なりと謂う。
人格完成の法
このように観れば、人格完成の法、また他にはない、只正義善なる理想を定め、之を実現せんとして常に奮起し勤勉に努力すると同時に、自己一切の行為に対して責任を重んずるに在るのみ。このようにして我等がその行為に対して責任を重んじようとすることは全てその良心を涵養(かんよう・養い育てる)し、その命令に従って行動云為(うんい・言行)すべし。即ち知る、良心の涵養は、品性の修養と帰着を同じくするのみならず、また人格の完成とも密接な関係を有することを。
人格の平等と差別
人はその精神作用に於いて正常な状態であれば、自己の言動について多少の責任を感じ、また何の理想をも持たないというのは人は稀である。即ち人はある少数の例外を除いて全て人格を有している。人格はそれぞれにとって絶対無限の価値あるものである。この点より観れば人格は万人平等と謂える。このことは、「生命」は何人にも等しく貴重なりと謂うが如し。然るに我等は人格に実際高低の差ありと観るが、それは何故か。是れ人格をその発展の方面より観るところに因る。例えば寒暖計の水銀は温度の差により高低を示す。それと同じく人格の高低有りと謂うのは人格そのものを謂うのではなく、発展の程度に応じて謂うのである。
その④に続く 次回最終回
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